国見峠・仙岩峠の年表

年号 西暦 国見・仙岩峠出来事 関連事項
宝亀12 780 続日本記に国見峠・生保内峠の旧名「石沢道」の表記。 出羽の国の蝦夷が反乱を重ねる中伊治公呰麻呂が反乱
康平5 1062 「前九年の役」が起こり安倍頼時が源頼義と戦う。源義家が国見峠を越えたという「抱き返り神社の伝承がある
延久4 1072 国見・真昼・白木の各峠に「貞任鬼面党」と呼ばれる安倍氏の残党が出没し清原方を攻撃したといわれる。
文治5 1189 奥州藤原氏を打つための鎌倉軍の別働隊が生保内から国見峠を越えて陣が岡(現:紫波町)へ向かったとされる。
建久5 1194 戸沢衡盛(ひらもり)源頼朝から滴石戸沢に領地を得て、戸沢氏を名乗る。同時に山本郡(仙北郡)4千6百町も与えられた。
建保6 1218 雫石の豪族「戸沢兼盛」が南部氏との抗争で、駒ケ岳沿いに逃れて玉川の宝仙台
(現:仙北市西木町)に移る。
正平6 1351 北朝方の鎮守府将軍北畠顕信(北畠顕家の弟)が国見峠を越えて多賀城を攻撃、奪還する。 南北朝時代の武将「高 師直」没す
長禄2 1456 峠を越えた南部氏が秋田の小野寺・安藤連合軍を破る。
寛正6 1465 小野寺・安藤連合軍南部軍の占拠していた金沢城を襲撃。城主の金沢家光は自刃、遺児は国見峠を越えて南部領に逃れる。
応仁2 1468 小野寺弘道は国見峠を越えて攻め入り、雫石の戸沢城に弟の道房を置く 前年から応仁の乱が勃発
天文9 1540 南部晴政(※高信ともある)が滴石城を襲撃。戸沢(手束)政安自ら火を放ち国見峠を越えて一族の本拠地角館城に身を寄せる「貝吹岳」「国見峠」の名称はこの時に付けられた。
天正15 1587 南部信直は重臣の「北左衛門信愛」を、豊臣秀吉にとりなしを依頼するため加賀の前田利家のもとに派遣する。このときに産内山(国見峠)の難所を越えたという記述が奥羽永慶軍記に登場する(はじめて峠の記述が史書に登場)。 豊臣秀吉の九州征伐
慶長6 1601 秋田に水戸から佐竹氏が転封される。 1600年関が原の合戦
慶長8 1603 徳川幕府が江戸に幕府を開き、諸国大名に街道整備と参勤交代を命じる。 徳川家康が征夷大将軍に任ぜられ徳川幕府が成立
慶長9 1604 盛岡領道路の里程を定め、一里塚を築く。
元和元 1615 雫石の橋場に三社座神社創建される。 大阪夏の陣で豊臣家滅びる
寛永2 1625 公儀御馬買がはじまる。 上野寛永寺開山
寛永7 1630 秋田街道の一里塚が築かれる。
寛永10 1633 幕府巡見使「分部右京」ら一行、雫石から国見峠を巡見。秋田領と盛岡領見分けによって藩境が決定。
慶安5 1651 時宗の遊行上人「他阿」が国見峠を越えて秋田に入る。 徳川家光死去。由井正雪の乱
元禄3 1690 公儀御馬買が廃止される。
文化2 1805 的方に秋田領御境塚に石標を建立。
文政12 1829 9月4日旅芸人「富本繁太夫」国見峠を越える。
嘉永2 1849 国見峠に南部領の石標を建立。
慶応3 1867 大政奉還。
慶応4 1868 戊辰戦争勃発。九条総督一行、雫石より国見峠を越えて生保内に入る。
明治4 1871 廃藩置県。
明治8 1875 秋田・岩手両県国見峠改修に着手。
明治9 1875 「仙岩峠」開削。7月 明治政府参議内務卿「大久保利通」は、自身が命名した仙岩峠を越えて生保内に入る。
明治27 1902 10月27日文人、田山花袋が仙岩峠を越える。 日英同盟締結
昭和26 1951 仙岩峠の改修に着手。
昭和32 1957 国道105号、秋田県側の生保内より工事着工。
昭和37 1962 国道105号、一級国道46号に昇格。
昭和38 1964 仙岩峠を越える国道46号「南八幡平パークライン」開通。
昭和46 1970 駒ケ岳噴火、仙岩道路工事着手。
昭和51 1976 10月28日 仙岩道路完工。
昭和57 1982 田沢湖線電化。